廻り始めたひとつの世界
著者:石川祐


さらさら、と風の音が流れる。
同時に池の水面にも細波が起こる。
池は、まだ幼い草花に囲まれるようにしてまどろんでいる。
春を迎えたばかりの草花は、柔らかい日の光を受けてきらきらと艶めく。
和やかな春の風景。
その中に、セーラー服に身を包んだ少女がいた。
草花の上に直接、ひざを抱えるようにして座り込んでいる。
視線は前を向いているが、どこを見ているのかは定かでない。
ただ、その先には学び舎がそびえるようにして建っていた。
遠く鐘の音が聞こえる。
にわかに強い風が巻き起こり、水面は荒れ、少女の髪も乱れて舞い上がった。
幼い少女に特有の、癖のない滑らかな黒髪。
風が止む頃には、鐘は聞こえなくなっていた。
長く伸ばした髪は、風が収まるとともに少女の元に戻る。
顔の前に垂れた髪を右手で梳くようにして耳にかけ、一度強く頭を振る。
右手を戻してひざを強く抱き、そこに顔をうずめる。
引き結ばれた少女の口からは、何も聞こえない。



「みーやまっ」
クラスメイト兼友人が、鐘が鳴ると同時にまとわりついてきた。
「暑苦しい、重い、鬱陶しい、離れろ」
そんな僕の態度も意に介さず、相手、瀬古基法(せこもとのり)は話を続ける。
「惜しい、『重い』じゃなくて『むさくるしい』って言ってたら3Cになったのに!」
「下らない言葉遊びはいいから。 何?」
「今日さ、俺買いたい本があるんで本屋付き合ってくんね?」
「無理」
即答すると、瀬古は口を尖らせて僕の机に覆い被さる。
「なんだよ、つきあいわりーなー…ってそうか、妹ちゃんか」
頷いて、瀬古の体の下から鞄を引きずり出し、机の中のプリント類をまとめてクリアファイルに入れる。
今日出た課題がなんだったか思い出しながら、必要のない教科書を机に戻す。
「なんつったっけ、うみ…」
「海原の海に東西南北の南で『みなみ』」
「そそ、海南ちゃん。 山南海南(やまみなみみなみ)ちゃん」
「フルネームで呼ぶな。 妹が瀬古菌に汚染される」
「ひどっ!?」
大袈裟に傷付いたリアクションを取る瀬古を置いて席を立とうとすると、後ろから声をかけられた。
「深山」
振り返ると、クラスメイトであり幼馴染の薬袋水月(みないみつき)が立っている。
「みぃちゃん、どう?」
みぃちゃんというのは海南の愛称であり、水月は小さい頃からそう呼んでいる。
「特に変わりはない」
事実を端的に述べるにとどめるも、隣に住んでいる水月にはそれだけで伝わる。
「そう……おじさんとおばさんはなんて言ってるの?」
「母さんはカウンセリングに行かせるのと担任との直談判と迷ってて、父さんはそもそも蚊帳の外」
「深山ん家って仲わりーの?」
瀬古が口を挟むと、水月が溜め息をつく。
「瀬古君、知りもしない他人の家の事情に口を出すのはあまり感心できないわ」
「んだよ、友達だから心配なだけじゃねーか。 海南ちゃん、今大変なんだろ?」
「声が大きい。 デリケートな問題なんだから、もうちょっと考えて」
水月が嗜めると、瀬古は肩をすくめる。
「二人とも心配してくれるのは有難いけど、それで険悪にならないでくれ」
僕が苦笑すると、二人揃ってばつが悪そうな顔になる。
この二人は相性が悪いらしく、何かと言い争いに発展する。
しかも必ず僕が間に挟まれるものだからもう少しどうにかしてほしいと思うのだが、二人に関係の修復や譲歩の努力が見られたことは無い。
今回は争いの種が僕にあるようなので、これ以上巻き込まれるのを避けるには一つしか方法がない。
僕は二人がにらみ合っている隙に教室を出た。
昇降口で外履きに履き替えていると、一人の女性教師がこちらに来るのが見えた。
まだ若く、大学を出てから5年も経っていないという噂もある。
だが、そんなことは理由にならない。
「山南君、ええと、妹さんのことなんだけど…」
躊躇うようにして海南のことを口にする女教師。
自分の担当している生徒の方を名前で呼ぶのが普通じゃないか?
どうして海南の担任が海南のことを「妹さん」なんて呼ぶんだ?
僕が何も言わずにいると、教師はかさばった大きい封筒をこちらに差し出す。
「あの日から来ていないでしょう。 授業のプリントを全然もらっていないみたいで机の中にあったのだけれど」
授業のプリント?
「ああ、わざわざありがとうございます」
僕は作り笑顔で教師に礼を言う。
あんたは海南がクラスに行ける事よりも、担当している教室の机の中がプリントで溢れ返らないことの方が大事なのか?
とんとんと軽く靴先で地面を叩いて、靴の中にかかとを収める。
女教師が何かを言いかけたが、そのまま僕はその場から立ち去った。


妹のいる「池」はこの校舎からやたらと離れたところにあり、また今の時期咲き誇る桜の木々に邪魔をされているため、校舎から死角になる位置にある。
この広大な敷地を誇る私立彩桜学園にはそういった未開の地が山ほどあるらしい。
もちろん、警備員や大学院生などのバイトによって定期的に見回りを行っているので、不審者が学園内に侵入したことは無いらしい。
ただ、この学園の生徒そのものが事件を起こしたりする(犯罪部なるものも存在するらしいが、果たしてそれは部活として認定されているのだろうか?)ので、それもあまり意味のあることとは思えないが。
何にしろ、妹に危険が及ばなければそれでいい。
がさ、と音を立てて封筒からプリント類を引き出す。
簡単な加減乗除の計算問題が山ほど、社会に使われたのであろう新聞のコピー、理科と称したタンポポの解剖図、大衆小説の一場面は国語だろう。
全く以って我が校の教師はプリントをやたらに作りたがる。
極端なところでいえば、教科書を開かない授業さえあるくらいだ。
強制的に買わされた教科書を使わないというのは一種の詐欺ではないかと思うのだが、文部科学省からの指導は入らないのだろうか。
プリントを大体見終わり、特に思うところも無いので封筒に戻そうとした時、封筒にまだ何かが入っていることに気が付いた。
プリントを脇に挟んでそれを取り出すと、いかにも少女漫画のおまけで付いてきそうな絵が堂々とデザインされた小さな封筒が入っていた。
封は同じ絵柄の簡単なシールでされているため、躊躇うことなく開ける。
こういうシールは開封しても気付かれないので便利だね。
封筒の中からはまたしても同じ絵柄の便箋が出てきて、正直僕はうんざりした。
これを書いた人間は一体どんな神経の持ち主だ?
便箋を開くと、いかにも女の子っぽい丸っこい字によって自己紹介、海南が学校に来ないことを心配していること、学校に来てくれると嬉しいといったような内容が便箋5枚に渡って綴られていた。
「大海原心雷(わだのはらみらい)ね…」
口の中で差出人の名前を転がしてみる。
さて、この人物は一体どのような目的でこの手紙を書いたのか。
一つ、真っ先に思いつくのはあのいけ好かない女教師に頼まれて書いたケース。
その場合、たった一通しか手紙がないことや、よく知らないクラスメイトに宛てて便箋5枚分も内容を書けるかといったことが引っかかる。
たった一通しかないということに関しては、この女生徒がクラスのリーダー格であることが考えられる。
5枚分もの内容に関しては、この年頃の女の子にありがちな交換日記や手紙のやり取り(僕が中等部だった時には授業中に回されていたものだ)に慣れている為と考えてもいいだろう。
しかしもう一つ。
便箋は清書されたわけではないらしく、何度か消しては書き直した跡も見受けられる。
これがあの女教師によって作為的に作られた手紙だったら、きっと綺麗に清書したものを入れさせられるだろう。
もう一つ思いつくこととしては、この女生徒が単なる善意やお節介でこの手紙を書いた可能性。
その場合、僕の立場で考えられることは極端に少なくなる。
そしてもう一つ。
海南をからかいやいじめの対象として書かれた可能性だ。
そこまで考えて、海南に渡していいものかどうかを考える。
内容に関しては、そこまで酷くない。
一貫して丁寧語を使ってあり、読んでいて気分が悪くなるような単語は一切見られない。
また、漢字も適切に配置されており、たまに見かける平仮名ばかり使う明らかに頭の悪い人種でも無さそうだ。
使ってある封筒や便箋はお世辞にも趣味がいいとは思えないが、中学1年生にそこまで分別や思慮を求めない方がいいのかもしれない。
丸っこい字は少々教養の無さを感じさせるが、字の大きさの均一性や等間隔に並べられた文字、留め・はね・払いがきちんと行われている様子は、これが丁寧に書かれたことを表している。
口元に手をやって考える。
海南はこのプリントの山を受け取ったら、全て自宅の机にある教化別ファイルに綴じる。
つまり、何も言わずにこれを渡してもこの手紙に気付く。
そして、多少なりとも喜ぶだろう。
海南が逐一僕のところに来ることを考えたら、僕は手紙をこのまま渡すより、知らないフリをした方がいいだろう。
封筒の中にクラスメイトからの手紙が入っていた、と僕に伝えに来た時「そうなのか? 良かったな、なんて書いてあったんだ?」と知らないフリをして共感してやることで、妹は喜びを膨らませることが出来る。
海南は、この手紙を受け取ったら几帳面に、丁寧に、手紙を書いてくれた人物に感謝と謝罪の言葉を手紙にしたためて返すだろう。
海南にとって何よりも嫌なことは「人前で喋る」ことである。
文章を書かせれば僕などよりも雄弁になるくらいだ。
さらに、返事を書いた場合は僕が配達人の役割をすることになるだろう。
そして担任を介さずに直接海南のクラスに出向いて返事を渡せば、差出人と多少なりとも会話の機会が出来る。
そこでどんな人物か見ればいい。
もし海南に悪意を持っているようなら、そこで少し精神的な圧力をかけてやればいい。
中学1年の僕には、高等部の生徒に対する意味の分からない畏怖の念があったものだ。
また、高等部に兄や姉がいるというだけで自慢をするようなやつもいた。
そう、海南には後ろ盾があるのだということを少し分からせてやればいいのだ。
もちろん、海南に好意を持っている場合には「親しみやすいお兄さん」と感じてもらう必要がある。
僕が怖がらせて、海南に人が寄り付かなくなるのも良くない。
まぁ、そこは持ち前の人当たりのよさを活かせばいいだろう。
開封前の状態にした手紙をプリントの山の間に戻す。
僕は素知らぬフリをして、海南のいる「池」に足早に向かった。



「あれ? 先客か」
知らない声が後ろから聞こえて、海南はびくりと肩を振るわせた。
恐る恐る後ろを見ると、男子生徒がこちらに歩いてくるところだった。
始業の鐘が鳴ってから大分時間も経ち、海南は兄が鞄に入れてくれた小説を読んでいた。
海南が固まっていると、彼は海南の隣に腰掛け、そのまま仰向けに寝転んだ。
「春は眠るのにいい季節だよね」
そう言って目を閉じる。
海南は彼の顔をじっと見る。
優しそうな雰囲気が、兄に似ているかもしれない。
そのまま時間が経っても、彼は目を開ける気配が無い。
寝てしまったのだろうかと海南は首を傾げる。
そうして、また小説に目を落とした。
朝から数えて、9つ目の鐘が鳴った時に彼は目を覚ました。
唐突に起き上がり、んーと唸って腕をめいっぱい空に伸ばす。
「腹が減った」
そう呟いて、立ち上がる。
ブレザーの上着を脱いで土を払い、海南に声をかける。
「君、お弁当持ってるの?」
海南は頷く。
「じゃあ平気だね。 ちゃんと食べなよ」
何故か海南の昼事情を確かめ、一人頷いている。
「……」
海南が黙って顔を見ると、彼は微笑んだ。
「じゃあね」
そう言って、彼は元来た道へ歩いていった。



「海南」
僕が声をかけると海南は振り返り、僕と目が合うと安堵したような笑顔を浮かべる。
「待たせてごめん。 帰ろう?」
海南は読んでいた小説を閉じて鞄に入れ、僕のところに小走りでやってきた。
僕が持っている封筒に目を留め、口を開く。
「お兄ちゃん、それ何?」
「担任の先生から海南への素敵なプレゼントだよ」
ありきたりな前口上とともに封筒を海南に渡す。
海南は、渡された封筒の中身を見て「…ううぅぅ」と小さく唸った。
僕はそんな海南の顔を覗き込んで、にこやかに言ってみせる。
「海南はしっかり勉強するいい子だよね?」
僕の言葉を聞き、海南は少し恨めしそうな表情になる。
「…お兄ちゃんのいじわる」
「ごめんごめん。 ほら、帰ろう」
僕は笑いながらそう言って、左手を差し出す。
海南は僕の手を取ると、途端に顔をほころばせた。
中学生にもなって、とは思うのだが、海南は手を繋ぐのが好きだ。
昔から、両親が仕事などで忙しい時には僕が本を読んでる傍に来て服の裾をつまんでいたり、テレビを見ているときには手を握ってきたりと、やたらと甘ったれなところがある。
兄妹で手を繋いでいいのは精々小学校低学年までだろう。
そりゃあ、妹がまだ幼稚園だとか小学校に入りたてだ、とかなら問題は無い。
僕は高等部の2年、16歳。
海南は中等部の1年、12歳。
僕が甘やかしているという自覚はあるのだが、どうも、振り払えないのだ。
正直、そろそろ卒業してもいい頃だと思っている。
ただ、妹の今の状況を考えると、出来ないのだ。

海南は、学校が始まった初日の自己紹介の時以来、教室に行っていない。
原因は、海南が極端に人前で喋るのが苦手だということ。
恐らく、蚊の鳴くような声でぼそぼそと、うつむいて自己紹介をやり過ごそうとしたのだろう。
あの日、泣きじゃくる海南から苦心して聞き出したところ、教師から「聞こえないからもう少し大きな声で言ってください」と言われたらしい。
海南は「何度も声を大きく出そうとしたけれど、喉がきゅうっと絞られるようになってしまってどうしても出なかった」とか「がんばったけどダメだった」というようなことを途切れ途切れに話した。
終いには「みんなから笑われてる気がして怖く」なって、教室から飛び出してしまった。
これには流石の僕もなんというか、まさか妹の社会性がここまで育っていなかったとはと驚き呆れた。
しかし、それでも僕は海南の兄だから、家族だから、海南をそこまで追い詰めた教師が憎い。
海南に原因があったにしろ、耐え切れなくなるまで続けさせたという事実が憎い。
海南の心を傷付けたあの人間が憎い。
そもそも、生徒の気持ちを慮ることが出来ないということは、教師としての能力が足りないのではないか?


「…お兄ちゃん」
「ん、どうした?」
他愛も無い会話の途中、海南が校門を指差す。
海南の視線の先には、瀬古と水月の姿があった。
どうやら、僕達を待っているらしい。
「水月はいいとして…海南、水月の隣にいるやつのことは知ってるか?」
海南は瀬古から視線を外さずに首を振る。
「あれは瀬古っていって僕のクラスメイトで、特に危険は無い」
瀬古のことをそんな風に説明し、さらに僕は補足する。
「あと、海南のことも少し話してあるから、変な目で見られることも無いよ」
海南が強く僕の手を握る。
どうやらこの様子だと、家に帰るまで海南の声は聞けそうにない。
僕は心の中で瀬古に呪いの言葉を吐く。
後でどんな代償を払ってもらおうかと考えている内に、校門に辿り着いた。
「みぃちゃん、久しぶり」
海南の目線に合わせるようにして腰をかがめ、水月が声をかけてくる。
「中学生になったら、ずいぶん大人っぽくなったのね。 前会った時よりまた可愛くなった」
「…み、みっちゃん…」
海南が顔を赤くしてうろたえる。
ちなみにみっちゃんとは海南が水月を呼ぶときの愛称である。
二人が旧交を温めているのを見守りながら、僕は瀬古に尋ねる。
「で、お前は何してんだ」
「うわ、つれねーこと言うなよ。 友達として一緒に帰ろうってだけじゃねーか」
「本屋はどうした」
「友の危機には駆けつける、それが俺の美学だ」
「まるで僕に何かあったみたいな言い草だな」
僕がそう言うと、何故か瀬古は口ごもった。
「い、いや、確かにお前自身になにかあったわけではないが、それに、なんだ、お前だって大変だろう?」
「…なんでそこでどもってんだ。 あと口調変わってるぞ」
瀬古は見ていて飽きない。
そういえば、中等部で初めて会ったときはこんな喋り方をする奴だった気がする。
人は変わるものだ。
くいくい、と左手が引っ張られる。
見ると、海南は反対の手を水月に繋いでもらったらしい。
「水月、悪いな。 海南、お礼言ったか?」
「いいのよ、そんなの。 私とみぃちゃんは姉妹みたいなものでしょ? それに」
水月はそこで言葉を切って、海南と目を合わせる。
「私も嬉しいんだから」
そう言って、微笑む。
海南は御満悦の表情で歩き出し、僕達もそれに倣う。
下校中の他の生徒たちからは奇異の視線を向けられるが、そんなことは些細なことだ。
海南は瀬古がいても普通程度に喋っているし、何よりこんなに嬉しそうな顔を見たのは久しぶりだ。
これなら、友達さえ出来ればクラスに通うことは難しくないだろう。
僕は安堵の溜め息をそっとついた。



「あれ」
「りっちゃん、どうしたの?」
「あれって、山南さんじゃない?」
「え、あ、ほんとだ」
「え、学校来てた? いなかったよね?」
「ていうかあの人たち誰? 高等部の人?」
「え、あの人ちょっとかっこいー」
「あのお姉さんも美人じゃない?」
「手繋いでる」
「あたしたちもやってみる?」
「えーやだ、恥ずかしいし」
「でも楽しそうだねー」
「うらやましいかも」
「そういえば今日さ、数学のあの問題とか、意味わかんなくなかった?」
「あー!あれね! 先公マジ意味わかんない!!」

少女達はさざめきあう。
自然と寄り集まり、その中で楽しく過ごす。
幸せそうに、幸せに。


「…………なんで?」


ぽつりと、黒い雨が落ちる。



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